懐疑派(Skepticism)

懐疑派」(※1)の創始者はピュロン(B.C.365頃〜B.C.275頃)だと言われている。
しかし、ピュロンは、何も書き残していない。
そのため、懐疑派の哲学を知るには、ピュロンの考えを受け継いだ弟子ティモン(B.C.325〜B.C.235頃)の言説を見る必要がある。

ティモンによれば、幸福を探究するにあたって目を向けるべきことが3つあるという。
1つめは、事物の本質は何かということ。
2つめは、その事物に対してわれわれはどのような状態にあるかということ。
3つめは、その状態から何を得られるかということ。

ティモンによれば、上記3つについて、ピュロンはおよそ次のように考えたという——

われわれは事物の本質を知ることができない。
なぜなら、人間の知覚が捉えられるものは事物の現れにすぎず、事物のありのままの姿ではないからである。
また、事物の本質は理性によって捉えることができるという人もいるが、理性による認識は習慣に縛られており、あまり信じることはできない。
つまり、人間は、事物のありのままの姿を知ることはできない。
それゆえ、われわれが事物に対してとるべき態度は、判断中止=「エポケー」しかない。
そして、こうした「エポケー」の態度をとる者が得られるのは、何が真で何が偽であるかとか、何が善で何が悪であるかと思い悩むことがない「乱されない心」=「アタラクシア」なのである。

こうした懐疑派の哲学は、一時期、プラトンが創設したアカデメイアにおいて大きな勢力となり、また、中世のキリスト教哲学者アウグスティヌスへも影響を与えることとなった。

(※1)「懐疑」とはギリシア語では「スケプシス」(skepsis)と言い、“探究”という意味であるが、このことは、懐疑派が「無知の知」によって事物の本質を探究しようとしたソクラテスの哲学的な姿勢を共有していたことを意味している。

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