ショーペンハウアー(Schopenhauer)

ドイツ観念論を批判的に継承したのが、ヘーゲルと同時代を生きたショーペンハウアー(1788〜1860)である。
その哲学は、彼の主著『意志と表象としての世界』のなかに、ほぼ描き尽くされている。

ショーペンハウアーによれば、世界は人間の主観の「表象」(現象)であるという。
時間や空間、因果性によって合理的に認識できるとカントが考えた世界は、主観によって捉えられた側面の1つにしかすぎない。
よって、世界には、他にも別の側面があることになる。
そして、その側面とは、経験の根拠ではあるが人間の認識によっては捉えられないとカントが言った「物自体」である。

ショーペンハウアーが考える「物自体」とは、カントとは異なり、「意志」であった。
しかし、「意志」といっても、個人や自我に備わる理性的な意志や神の意志などでは決してない。
主体を持たない無意識的な「生への盲目的な意志」である。

この盲目的な意志は、あらゆる生命現象と物理現象の背後で働いているが、人間においては身体として客体化されている。
しかし、この意志は、盲目的であるために何の根拠も目的もなく、しかも無際限である。
そのため、人間の欲求は決して満たされることがなく、その生は苦悩に満ちるしかないという。

それでは、人間は、どうすれば苦悩から「解脱」できる(解放される)のであろうか?
ショーペンハウアーは、まず、芸術、とりわけその最高形態である音楽について考察するが、苦悩からの解脱を完全にもたらすものではないと結論づける。
なぜなら、音楽(芸術)は、プラトンが言うイデアを直観できるものの、苦悩からの解脱は一時的で、恒久的な解脱とはなりえないからである。

次に考察されるのが「同情」(「共苦」)である。
ショーペンハウアーが言う「同情」とは、他者のなかに自分自身と同じ苦悩を見出して共有し、他者を理解しようとすることである。
それによって、他者への純粋な愛が生まれる。
しかし、苦悩からの解脱という点では、まだ不充分である。

そこで最終的に考察されるのが「禁欲」である。
「禁欲」とは、生への意志そのものを否定することである。
意志が欲望として盲目的に作用するということを哲学的に把握すれば、意志と、その表象である世界は消え去り、この世界への執着もなくなり、苦悩から完全に解脱することができるのである。
こうした「禁欲」は、仏教における「諦念」(物事の正しい道)と同じ意味である。

こうしたショーペンハウアーの哲学は、「ペシミズム」(厭世主義)と呼ばれ、ニーチェへ大きな影響を与えるとともに、「実存主義」や「生の哲学」の先駆となった。

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