プラトン(Plato):太陽の比喩、線分の比喩、洞窟の比喩

プラトンは、『国家』のなかで、「善のイデア」について、それが何であるかを直接には語ることができないとして、「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」という3つの比喩を用いて説明している。

太陽の比喩(「善のイデア」はどのようなものであるか?)

「太陽の比喩」では、「善のイデア」がどのようなものであるかについて説明されている。
花や木、犬のような「可視界」(生成界)の「見えるもの」は、眼をどんなに見開いても、太陽の光がなければ見ることはできない。
これと同じように、徳や勇気のような「可想界」(イデア界)に存在する「理性によって把握されるもの」=「イデア」は、理性があったとしても、「善」そのものの光がなければ“知る”ことはできない。
つまり、太陽は、光をもたらすことによって視覚能力を高め、対象を「見えるもの」にすると言えるが、これと同じように、「善のイデア」は、その光で理性に能力を与え、「イデア」を「理性によって把握されるもの」にするのである。
このように、「善のイデア」は、すべての「イデア」の根拠として「イデア」を「存在」とするが、「善のイデア」自身は「存在」ではなく、「存在の彼方(かなた)」にあるとされる。

線分の比喩(「善のイデア」は何によって知られるか?)

プラトンは、「線分の比喩」のなかで、知る能力がどの区分(線分)にあるとき、何が知られるかについて、1本の線を使って説明している。
まず、1本の線ABを、点Cによって、長さがAC<CBとなるように、2つに分ける。
このとき、線分ACは「見えるもの」、線分CBは「理性によって把握されるもの」を表している。
次に、線分AC(「見えるもの」)を、点Dによって、AC:CB=AD:DCとなるように、さらに2つに分ける。
このとき、線分ADは「影像」(水や鏡に映った像、絵に描かれた像、彫刻につくられた像など)、線分DCは感覚的事物(動物、植物、人工物など)を表している。
一方、今度は、線分CB(「理性によって把握されるもの」)を、点Eによって、これもAC:CB=AD:DC=CE:EBとなるように、さらに2つに分ける。
このとき、線分CEは数学的対象、線分EBは対話法(「ディアレクティケー」)の対象=「イデア」を表している。
こうした作業によってできた線分のそれぞれに、プラトンは魂の働きを対応させた。
線分AD(「影像」)には「臆測」、線分DC(感覚的事物)には「信念」、線分CE(数学的対象)には「推論思考」、線分EB(対話法の対象=「イデア」)には「理性の把握」をそれぞれ対応させたのである。
こうした「線分の比喩」によってプラトンが言いたかったのは、魂は発達段階に応じて捉えることができる対象が異なってくるということであった。
つまり、人は、魂が高まるにつれて、「善のイデア」を“知る”ことができるようになると考えられたのである。

洞窟の比喩(「善のイデア」を知るにはどうすればいいか?)

プラトンは、「洞窟の比喩」のなかで、ソクラテスの口を借り、人というのは、生まれたときから洞窟の底で手かせ、足かせ、首輪をつけられ、後ろを振り返ることもできず、前方を見たままの状態で固定された囚人のようなものだと言った。
囚人の背後には火が燃えていて、その火と囚人のあいだをいろいろな道具や人形が通り過ぎ、それらの影や自分自身の影、他の人びとの影が囚人の前方の壁に、さながら影絵のように映し出される。
そのため、人は、影絵のように映し出された影を「真実のもの」だと思い込んでいる。
こうした人間は、「無教養」な段階にとどまっているとされる。
ここで、ある人が、自分の束縛を解き、後ろを振り返ったとすれば、自分が「真実のもの」だと思っていたものが、実は火が映し出す影であったと知ることができる。
さらに、その人が洞窟を抜けて地上へ出れば、太陽こそがすべてのものの原因(根拠)であると知ることができる。
そして、真実を知った者は、自分が知ったことを仲間へ伝え、地上へ連れていこうと、ふたたび洞窟の底へ戻る。
しかし、人びとは、ソクラテスのときと同じように、彼の話を信じないばかりか、彼を捕らえて殺してしまうであろう‐‐
このように、「洞窟の比喩」のなかでプラトンは、「善のイデア」を“知る”にはどのようなプロセスを経るのかについて示したが、それだけにとどまらず、哲学者にとっての学習とはどのようなものか、ソクラテスの死の意味とは何だったのかについても示したのであった。

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