プラトン(Plato):イデア論

メノン』において、ソクラテスの口を借りて「想起説」を唱えたプラトンは、『パイドン』において、魂が不死であることを証明する文脈のなかで、「想起説」をさらに深く考察した。

人は、たとえば木を見て“これは木だ”とか、犬を見て“これは犬だ”と判断する。(※1)
しかし、木は、種類の違いや形の違いによって1つとして同じものはないし、犬も、種類の違いや姿形の違いによって1匹ごとに異なっている。
それでも人は、個々の木を見て、“これは木だ”と判断するし、個々の犬を見て、“これは犬だ”と判断することができる。
このとき、人は、無意識のうちに、“いま見ている木(犬)は確かに木(犬)だけれども、これは自分が木(犬)だと判断する基準そのものではない”と思っている。
つまり、この木もあの木も木としては等しいし、この犬もあの犬も犬としては等しいと判断する一方で、個々の木や犬とは別の、木としての「等しさそのもの」、あるいは、犬としての「等しさそのもの」を同時に思い浮かべているのである。
確かに、ある人が“これは木(犬)だ”というものを、別の人が“これは木(犬)ではない”と判断することはあろう。
しかし、その場合でも、ある人が“木(犬)だ”と判断する対象と別の人が“木(犬)だ”と判断する対象が別種のものになることはないのだから、「等しさそのもの」が人によって異なるということはない。
だとすれば、あるものを感覚して、それが等しいと判断できるのは、魂があらかじめ「等しさそのもの」を知っているからである。
これは、「等しさそのもの」だけに限られる話ではない。
人が“これは正しい”“これは善い”“これは美しい”と判断できるのは、「正義そのもの」「善そのもの」「美そのもの」といった「まさにそれである当のそのもの」をあらかじめ知っているからにほかならない。

プラトンは、およそこのようなことをソクラテスに語らせ、「まさにそれである当のそのもの」を「イデア」(idea)と呼んだ。
プラトンにおいて判断するとは、イデアを想起することなのであった。

さらに、プラトンは、イデア論の立場から、世界の構造についても考えた。
「イデア」は、感覚によって捉えることはできず、理性によって捉えられる。
感覚の対象は個別的で生成消滅するが、理性の対象である「イデア」は「一にして同一な存在」で永遠不変である。
そのため、プラトンは、世界が、感覚を超えた永遠不変な「イデア界」(可想界)と、感覚によって捉えられる個物が属する「生成界」(可視界)からでき上がっているという「二世界論」をとった。
そして、この「二世界論」は、その後の西洋哲学に大きな影響を与えていったのである。

(※1)『パイドン』のなかで、実際に木や犬が例に挙げられているわけではない。理解しやすくするために、筆者が独自に取り上げた例にすぎない。

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