カント(Kant):ア・プリオリな総合判断

カント:理性の限界」で見たように、理性がその限界を超えて形而上学的問いに挑むとき、必ずアンチノミー(二律背反)が生じるのであったが、それではなぜ、これまでの哲学は、アンチノミーに陥らざるをえない形而上学的問いに挑んできたのであろうか?
それは、カントによれば、「どうすればア・プリオリな総合判断は可能であるのか?」という課題に気づかなかったからだという。

ア・プリオリ」というのはラテン語で、“あらかじめ”“先立って”と訳すことができ、ここでは“経験に先立つ”“生まれつき”という意味で用いられている。
また、「総合判断」というのは、主語を分析しても述語が導き出せない判断のことである。

主語を分析すれば述語が導き出せる判断は「分析判断」と呼ばれ、“物体はすべて延長を持つ”という判断のように、物体という主語(概念)を分析すればおのずと延長(拡がり)という述語(概念)が含まれていることがわかる判断のことである。
そのため、分析判断に経験は必要ない。
しかし、総合判断は、経験を経なければ成り立たない。
たとえば、“薔薇(ばら)は赤い”と判断する場合、薔薇という主語をいくら分析しても、そこから“赤い”という述語は導き出せない。
なぜなら、薔薇には、赤い薔薇もあれば、黄色い薔薇、白い薔薇もあるからだ。
したがって、“薔薇は赤い”という判断は、薔薇に関する具体的な経験にもとづく判断(「経験判断」)であり、総合判断だということになる。

カントは、「経験判断は一般に総合判断である」と述べ、“総合判断=経験判断”とみなしているが、それでは、ア・プリオリな総合判断、すなわち、“経験に先立つ経験判断”というのは、いったいどういう意味なのであろうか?
それは、“経験にもとづく判断(認識)は、ア・プリオリな認識能力なくしては成り立たない”という意味である。

もしも総合判断にア・プリオリな認識能力が関わらないとすれば、人は各人の多様な経験によってのみ判断するため、ある人にとっては薔薇は赤く、別の人にとっては薔薇は白いものとなり、普遍的な認識の可能性がなくなってしまう。
とすれば、数学や自然科学といった学問の根拠は失われてしまうことになる。(※1)
そこでカントは、ア・プリオリな認識能力を想定することにより、普遍的な認識の可能性を確保しようとしたのだ。

それでは、ア・プリオリな認識能力とは何なのか?
その探究の内訳を『純粋理性批判』の第1部「超越論的感性論」と第2部「超越論的論理学」のなかに見ていこう。

(※1)カントによれば、数学や自然科学は、総合判断にもとづく学問である。

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