ヘーゲル(Hegel):『精神現象学』

西洋哲学史において最大の著作の1つと言われるのが、ヘーゲルの主著『精神現象学』である。
この著作のなかでヘーゲルは、人間の精神を、さまざまな問題にぶつかり、自分自身を否定し、そしてその否定を乗り越えていく弁証法のプロセスとして描いている。
その結果、人間の精神(意識)は、素朴な感覚の段階から「絶対知」の段階へいたるとヘーゲルは主張する。

意識

ヘーゲルによれば、人間の精神のもっとも素朴な段階は、「感覚的確信」である。
これは、目の前にある対象のみが“ほんとう”であり、それゆえ、対象がそのまま“ある”のであって、自己は対象を一方的にながめていると素朴に信じ込んでいる段階である。
しかし、意識はやがて、主観(認識)と客観(対象)はただながめる側とながめられる側に分かれているのではなく、両者を関係づけているのは自己において他ならないことを知る。

自己意識

自己が認識している対象との関係が成り立つためには、対象が不可欠であることに気づく。
つまり、自己のみならず、対象のほうも同じ関係を認めるという「相互承認」がなければ、自己意識は成り立たない。
そのよい例が、主人と奴隷だ。
奴隷は闘いに敗れて主人に従順であるが、実は主人のほうは、そうした奴隷の従順な労働なしには生きていけない。
このように、自己と対象とが意識において1つであると気づくとき、自己意識は理性へと発展していく。

理性

理性は、自己の価値を関係性のなかに見出していく。
理性には、自然を観察し、そのなかに自己を見出そうとする「観察する理性」があるが、もう1つ、他者から承認してもらおうとする「行為する理性」がある。
この「行為する理性」は、まず、相手との「快楽」(けらく)=恋愛において自己の価値を見出そうとするが、閉鎖的で個人的であるためにうまくいかない。
次に、“自分の幸せがみんなの幸せ”になることをめざすが、自分が思う“みんなの幸せ”と他者が思う幸せが一致しないことを知る。
そこで、「行為する理性」は、自分が思う“みんなの幸せ”をなんとか実現しようと「徳の騎士」となる(意気込む)が、世間を無視した独善性のため、やはりうまくいかない。
その結果、「行為する理性」は、一定の普遍性(「事そのもの」)を持つ行為のみが、他者からの承認を得ることを知るにいたるのである。

精神

意識→自己意識→理性という人間個人の精神の成長を描いたヘーゲルは、次に、このプロセスを歴史へ適用し、人類の精神の成長を描き出す。
これは、“精神というものは具体的な社会制度となって現実化する”とヘーゲルが考えていたことによる。
ヘーゲルによれば、古代ギリシアのポリスにおいては個人の精神と社会(共同体)の精神は調和していたが、家族のルールと社会のルールの不一致によって個人の精神と社会の精神は対立するようになる。
この対立によって、精神は「自分から疎遠になった精神」(自己を客観視する精神)となるが、個人の精神はふたたび社会の精神と一体化することをめざす。
そして、「高貴な意識」vs「下賎な意識」→「信仰」vs「啓蒙」→「絶対自由」vs「道徳性」という弁証法のプロセスを経て、ついには「事そのもの」を自覚した「良心」=「絶対知」の境地にいたる。
これが、古代ローマから絶対君主制を経てフランス革命へといたる歴史なのだとヘーゲルは言うのである。

絶対知

ヘーゲルが言う「絶対知」とは、意識→自己意識→理性という人間精神の展開のプロセスを充分に知り尽くした精神のことであり、真の“ほんとう”“善い”“正しい”は他者に承認されてはじめて成り立つことを自覚した精神のことである。
また、宗教が言う「神」を概念として完全に把握した精神のことでもあった。
こうしたすべてを見通すことができる「絶対知」の境地に、人間の精神は到達することができるとヘーゲルは考えたのである。

こうしたヘーゲルの考えによれば、歴史とは、精神=理性である「絶対者」が自身の本質を明らかにさせていく過程である。
また、「絶対者」の本質は「自由」にあると考えられたため、ヘーゲルにとっての歴史とは、“理性が自由を実現していく過程”なのであった。

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