ヘーゲル(Hegel):シェリング批判と絶対者の発展としての歴史

すでに紹介したシェリングの哲学において、精神と自然はどちらも絶対者から展開したものであるとされた。
そして、絶対者には質の差がないため、そこから展開した精神と自然にも質の違いはなく、両者を分けるのはただ量の違いなのであった。
つまり、シェリングによれば、人間の精神は、路面に転がっている石ころと同じ性質のものなのである。
しかし、それでは、両者の量の違いは、いったいどのようにして生じるのかという疑問が残る。

こうした疑問に対して、ヘーゲルは、そもそもシェリングの言う絶対者は絶対者たりえていないと批判する。
シェリングは、絶対者と有限者(精神と自然)が質的に違わず、量的な違いがあるだけだと言っている。
しかし、実際には、無限なる絶対者が有限者から超越していると考えている。
そうすると、絶対者は、有限者とは別の対立した存在だということになる。
つまり、絶対者は、有限者という対立者を持っていることになり、無限者ではなくなるとともに、絶対者にはならなくなってしまうとヘーゲルは批判したのである。

もともとシェリングは、有限者に対するものとして無限者という名を与えたにすぎないのであるが、ヘーゲルに言わせると、それは“自己に対して他者を自己の外部に持つ”「悪無限」である。
それでは、ヘーゲルは、絶対者というものをどのような存在だと考えたのであろうか?
ヘーゲルが考える絶対者とは、“すべてを自己のうちに含み込み、他者のもとにあって自己であるような無限”である。
こうした無限をヘーゲルは「真無限」と呼び、絶対者として規定したのである。

こうしたヘーゲルの絶対者観によれば、有限者は無限者のなかに含み込まれることになる。
変化する有限者を内に含みながら、みずからは変化しないで自己同一性を保つのが絶対者だということだ。
それでは、内に含まれる有限者は変化しつつも、絶対者自身は変化しないとは、いったいどのようなあり方なのであろうか?
ヘーゲルによれば、絶対者は、みずから有限者として変化しつつも、その変化の過程を通して自分自身を現すという。
「(有限者の)変化の過程」というのは、「歴史」のことだ。
また、物質は固定的で変化しないとヘーゲルは考えたので、変化するのは精神=理性だとされた。
よって、精神=理性としての絶対者は歴史のなかで自分自身を現していくと言えるが、そうだとすると、歴史には“目的”があり、有限者の変化には“摂理”があると考えることができる。
こうした“有限者としての絶対者が摂理に沿って目的へ向けて自己を実現していく”あり方を考察するなかでヘーゲルが見出したプロセスが「弁証法」である。

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