デカルト(Descartes):方法的懐疑

デカルトの著作の1つである『方法序説』は、原題を『理性を正しく導き、さまざまな学問において真理を求めるための方法に関する序説』と言う。
つまり、デカルトは、この著作において、哲学のみならず、他のあらゆる学問を基礎づけようとしたのである。

デカルトにとって、スコラ哲学をはじめとする既成の学問は、「真らしく見えるにすぎないもの」を扱うだけの、前例と慣習に束縛された思考にしかすぎなかった。
そのため、あらゆる学問にとっての基礎を新たに最初から打ち立てるためには、不確実だったり疑いの余地があったりするような要素は、あらかじめ排除されなければならなかった。
この目的を果たすためにデカルトが用いた方法が、「方法的懐疑」である。(※1)

「方法的懐疑」においてデカルトは、まず、人間の知覚や内的感覚を疑った。
つまり、楽器の音色(ねいろ)や果物の色といった知覚や、頭痛や腹痛がするといった内的感覚は、それがどんなにありありとリアルに感じられるとしても、夢のなかの出来事であるかもしれず、夢は目が覚めてはじめて夢だと気づくものであるから、現実だと思われる感覚はすべて不確実だとしたのである。

次にデカルトが疑ったのは、数学的な真理であった。
つまり、“2+3=5”のような知識は確実だと思えるが、しかし、ひょっとしたら神がわれわれを欺(あざむ)き、誤った結論へ導いているかもしれないという可能性は排除できない。
そのため、数学的な真理も、すべて疑いの余地が残るとしたのである。

このようにして疑っていくと、あらゆるものは不確実だったり疑いの余地が残ったりするため、確実なものは1つも残らないように思える。
しかし、ここでデカルトは、たった1つ、確実なものを見出した。
それは、“すべては夢かもしれない”“神に欺かれているのかもしれない”と疑い、さらに、そうやって疑う自分自身を疑う“私自身”である。
つまり、デカルトは、私が疑っている=考えているということは疑いようがなく、そのように考えている私が存在することは絶対確実だという結論にいたったのである。
この結論を、デカルトは、『方法序説』の第4部において、「われ思う、ゆえに、われあり」(コギト・エルゴ・スム)と表現している。

こうして、“思惟する存在としての自己”は、デカルトの哲学の“出発点”となったのである。

(※1)「方法的懐疑」は、不確実であったり疑いの余地があるものを排除し、確実なものを見出すという目的のためだけに“わざと疑う”哲学的な方法にすぎず、デカルトが実際に現実世界を疑わしいと思っていたわけでは決してない。

◀︎ デカルト:生涯と著作
デカルト:神の存在証明 ▶︎

【西洋哲学史のキホン:目次】