【環境倫理学】自然の権利(rights of nature)

人間中心主義から自然中心主義へ

環境破壊が明らかになってくるにつれ、環境保護が唱えられるようになったが、その環境保護とは〝現在の生活レベルを維持できる範囲での環境保護〟であって、〝生活レベルを落としてさえも実行を優先する環境保護〟では決してなかった。
つまり、それまでの環境保護とは、人間の都合に合わせた「人間中心主義」の環境保護だったのである。
これに対し、人間を自然の一部だと捉え、環境保護のためには人間の生活や活動が制限されることも厭(いと)わないという「自然中心主義」の環境保護が唱えられるようになった。

自然中心主義の環境保護においては、まず、自然は「道具的価値」を持つものとしてではなく、「内在的価値」を持つものとして捉えられる。
たとえば、森林であれば、建材や燃料といった資源の宝庫としてではなく、いろいろな生命が育まれ、その生命が共生する尊ばれるべき存在として捉えられるのである。
そのため、自然に「内在的価値」を認める自然中心主義においては、自然が人間にとってどれくらい利用価値があるかという視点は捨てられる。

次に、自然中心主義の環境保護においては、自然は「保全」(conservation)ではなく、「保存」(preservation)されるべきものだと捉えられる。
「保全」には、〝人間が利用しやすいように保護する〟という意味が含まれる。
これに対して「保存」には、〝人間の都合には関わりなく、それ自体として保護する〟という意味が含まれる。
そして、環境保護のあり方は、保全から保存へ移行していかなければならないと主張されるのである。

なお、自然中心主義と言った場合の「自然」が何を指すのかについては、人間はもちろん、あらゆる動植物を含む個々の生命だとみなす「生命中心主義」と、個々の生命が有機的に関係した1つの体系=生態系だとみなす「生態系中心主義」とに立場は大別される。

「自然の権利」訴訟

こうした自然中心主義の立場に立って環境保護(自然保護)を進めるうえで唱えられるようになったのが、「自然の権利」(自然の生存権)である。(※1)
これは、人間に人権が与えられているのと同様に、自然にも権利を与え、たとえば破壊されていく森林や絶滅へと追いやられる生物種が、みずからの「権利」(生存権)を行使できるようにすることが目的であった。
もっとも、森林や生物種自身が訴訟を起こすことはできないので、実際には環境保護団体などが代わりに訴えを起こす。

米国のミネラルキング渓谷にリゾート施設を建設しようとしたウォルト・ディズニー社に対する開発許可の無効を訴えて、シエラ・クラブなどの環境保護団体がロジャース・モートン内務長官を訴えた「シエラ・クラブ対モートン事件」(1965年に提訴)を皮切りに、自然の権利にもとづく訴訟は世界各国で起こされるようになった。
日本では、1995年2月に鹿児島地方裁判所へ提訴された「奄美自然の権利訴訟」(アマミノクロウサギ訴訟)が最初で、その後は「オオヒシクイ自然の権利訴訟」(1995年12月に水戸地裁へ提訴)「大雪山のナキウサギ裁判」(1996年8月に札幌地裁へ提訴)などがある。

なお、米国では、原告勝訴の判決がいくつも出ている。
また、勝訴判決にはいたらなくとも、訴訟を起こしたことで開発が中止になる例は増えており、日本も例外ではない。

(※1)日本へ環境倫理学を紹介した哲学者の1人である加藤尚武が著した『環境倫理学のすすめ』では、「自然の生存権」という表記になっているが、現在では、〝自然界の存在全般に権利を与える〟ことが視野に入っているので、「自然の権利」と表記されるようになった。

◀︎ 【環境倫理学】地球環境問題と環境倫理学
【環境倫理学】世代間倫理 ▶︎

【倫理学のキホン:目次】