QLOMAGA[クロマガ]|哲学系情報マガジン

アンリ・ベルクソン(Henri Bergson、1859-1941)は、実証主義的科学の立場を代表する「分析的知性」が、物質のみならず生命すらも物理的法則によって説明しようとしたことに対抗して、「生の哲学」を唱えた。

純粋持続

ベルクソンは、生命の本質を捉えるためには、対象を〝外から見る〟「相対的な知」ではなく、〝内から見る〟哲学的な知=「直観」が重要だと考えた。
そして、この知を求め、『意識に直接与えられたものについての試論』のなかで、時間について探究した。
ベルクソンはまず、カントが〝内部感官の形式〟として捉えた時間とは、たんに〝数量化して計算できる時間〟〝時計で測ることができる時間〟にしかすぎず、それでは時間の本質は捉えられないと考えた。
カントのような〝外から見る〟捉え方だと、時間というのは過去、現在、未来が時間軸に沿って並び、現在を中心にして前後に「等質に」広がる空間のようなあり方となる。
しかし、私たちの意識が〝内から見る〟時間とは、二度と同じ状況になることがない無数の瞬間の「持続」であり、それぞれの瞬間は過去の記憶と未来への予測に浸透されている。
たとえば、1つの曲は個別の音の連続であるが、たんなる音の連続ではなく、相互に融合し、浸透しあった総体である。
そのため、同じ〝ド〟の音でも、その箇所のメロディーの調子や前後の音との関係などによって、それぞれに違う独自の響きとして私たちには聞こえる。
曲は、そうした音の連続のしかたによって成り立っている。
時間=〝瞬間の持続〟も、これと同じである。
このように直観によって捉えられた内的な時間のあり方を、ベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。

生命の跳躍(エラン・ヴィタール)

直観によって生命の本質を捉えようとするベルクソンの試みは、生物進化の分野にも及んだ。
19世紀半ば、ダーウィンは『種の起源』を出版し、生物は常に環境に適応するように変化し、その結果、種が枝分かれして多様な種となっていくという「自然選択説」を唱えた。
これは、キリンを例とすれば、〝変異〟により首の長さが違うキリンがいたが、首がより長いキリンのほうが高いところにある葉を食べられるので、そうしたキリンが〝選択〟によって生き残り、首が長いという特徴が子孫に〝遺伝〟したという説である。
こうした進化論の考え方に対し、ベルクソンは、『創造的進化』のなかで、生物の進化は外的な要因に還元することはできず、生命独自の内的で「予測不可能」=自由な衝動こそがより高度な進化を促したと唱えた。
つまり、ホタテ貝の視覚受容器もヒトの眼球も、〝見よう〟とする衝動があったからこそ形成されたのである。
このような、より高度な生物に進化しようとする内的な衝動を、ベルクソンは「生命の跳躍」(エラン・ヴィタール)と呼んだ。

ブックガイド

ベルクソン』(金森修 著)
▼ベルクソン哲学に触れたいのなら、まずは本書だ。ふつう、どんなにやさしい入門書でも200ページくらいはあるものだが、この本は100ページもないので、「読み通すぞ!」と気合を入れることなく気楽に読める。それでいて、科学によって分析される世界以外の世界に触れられる。

ベルクソン=時間と空間の哲学』(中村昇 著)
▼ベルクソン哲学のなかの、特に「純粋持続」にテーマを絞って解説している。〈わたし〉はなぜ生きているのか?——この問いを、存在論や認識論などに絡め取られることなく、あくまでも「持続」を基点に考えている。

物質と記憶』『道徳と宗教の二つの源泉
▼本文で紹介した『意識に直接与えられたものについての試論』と『創造的進化』以外のベルクソンの著作でよく読まれるのが、この2冊だ。『物質と記憶』は、「イマージュ」という概念を提起することによって、観念論と実在論の対立を克服し、両者を統合しようとした書である。一方の『道徳と宗教の二つの源泉』は、道徳を「静的」で「閉じたもの」、宗教を「動的」で「開いたもの」と位置づけ、人間は「閉じたもの」から「開いたもの」へ向かうべきであり、それは神秘主義によってなされると主張した書である。